Living in a Japanese Heritage Site
Club Tourism introduces the charms of areas that have been certified as "Japan Heritage"! We will introduce the unique stories of the towns that give a sense of Japanese culture and tradition. We will introduce details of the certified areas and nearby tourist spots.
What is "Japan Heritage"?
Stories that tell the culture and traditions of Japan, certified by the Agency for Cultural Affairs. 104 stories have been certified by the 2025 fiscal year.
The aim of the project is to support efforts to comprehensively utilize a variety of attractive tangible and intangible cultural assets, promote their appeal both domestically and internationally, and revitalize the region.
Pick up! Japan Heritage
[Hiroshima Prefecture, Kanagawa Prefecture, Nagasaki Prefecture, Kyoto Prefecture] Naval Bases Yokosuka, Kure, Sasebo, Maizuru
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~日本近代化の躍動を体感できるまち~
明治新政府が近代国家を建設するために掲げたスローガンの一つが富国強兵、その強兵の一翼を担ったのが海軍です。明治政府は西欧列強と対等に渡り合うため、艦艇の配備を進めるとともに、明治17年、横須賀に鎮守府を置いた後、同22年に呉と佐世保、同34年に舞鶴で鎮守府を開庁し、島国日本の周辺海域を分割して管轄する海の防衛体制を確立しました。近代日本の海防の要として共に歩んだ横須賀・呉・佐世保・舞鶴。西欧の先端技術を導入し、その技術を伝え、さらに新たな技術を創り出し、技術力を高め合うことで日本の近代化を推し進めました。数多くの軍港関連遺産の中には、現在でも稼働する施設が多くあり、当時の技術水準の高さを伺い知ることができます。
\Introducing some of the 104 stories/
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北海道エリア
【北海道】江差の五月は江戸にもない ─ニシンの繁栄が息づく町─
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北海道南西部に位置し、日本海に面した江差町。海岸線に沿った段丘の下側には、切妻屋根の建物が建ち並ぶ町並みが伸び、それらの建物の暖簾・看板・壁には、簡単な記号を組み合わせて表現される屋号が掲げられています。海側へ降る坂道の小路に入ると、建物が土地の傾斜に沿って階段状に下がって、基礎の石垣も建物ごとに段差が付いていることがわかります。これらは江差の地形とニシンの産業が創り出したもので、江戸を凌ぐともいわれた繁栄を今に伝えています。町並みを歩き、文化に触れ、交易船の停泊港でもあったかもめ島を散策して対岸に広がる江差の町を臨めば、今でも色濃く残るニシンによる繁栄を体感することができます。
【北海道】カムイと共に生きる上川アイヌ ~大雪山のふところに伝承される神々の世界~
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アイヌの人々は、自然・動物・植物・道具など人間をとりまくすべての事物には“魂”が宿っており、神はカムイモシリ(神々の国)から山や川、クマなど様々な事物に姿を変えて“カムイ”としてアイヌモシリ(人間の国)に下りると考えました。上川アイヌの人々は、「川は山へ溯る生き物」であり、最上流の大雪山は、北海道最高峰であり、最もカムイモシリに近いところと考えました。大雪山のふところでは、今もなお上川アイヌの営みが息づき、文化や歴史を発信し続けています。上川アイヌが見出したカムイは、他にも「地獄に通ずる穴」や「アイヌの古戦場」「底無し沼と妖刀」など、数々の伝説や歴史を残し、各地で今も語り継がれています。
東北エリア
【山形県】自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」~樹齢300年を超える杉並木につつまれた2,446段の石段から始まる出羽三山~
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山形県は「山の方(山のある方角)」が県名の由来といわれ、県域の8割を山地が占めています。中でも村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の「出羽三山」は古くから霊山として崇敬されてきました。この地で生まれた羽黒修験道では、羽黒山が現世の幸せを願う「現在」の山、月山は祖霊が鎮まる「過去」の山、湯殿山は新しい生命を表す「未来」の山と見立てられ、三山めぐりは現在・過去・未来をめぐる「生まれかわりの旅」として江戸時代の庶民の間に広がりました。羽黒山の杉並木から始まる「生まれかわりの旅」。今も参拝者や地域の人々に支えられながら、山の自然を崇め仰いだ先人の想いを伝えています。
【宮城県】政宗が育んだ“伊達”な文化
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仙台藩を築いた伊達政宗は、文化的にも上方に負けない気概で自らの”都”仙台を創りあげようとしました。伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、新しい”伊達”な文化を仙台の地に華開かせました。政宗の文化に対する姿勢は、次代の藩主たちにも受け継がれ、さらには全国へ、そして庶民へと広がっていきます。東照宮例祭の仙台祭は、仙台・青葉まつりに受け継がれ、仙台藩の御用を務めた御職人たちが担っていた工芸品は、仙台城下の職人に引き継がれ、今日でも伝統工芸品として生き続けています。
【福島県】会津の三十三観音めぐり ~巡礼を通して観た往時の会津の文化~
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東北地方で唯一古事記にその名を残す会津は、四周を深い山々に囲まれた辺境の地でありながらも、日本海側と太平洋側からの文化が出会う場所として、また東北地方への入り口として、地政学的な要衝でした。古墳時代にはすでに中央国家との交流があったことから、仏教伝来と同時期に開かれたという高寺伝承に見られるように、仏教文化の流入も早かったのです。会津の三十三観音は、国宝を蔵する寺院から山中に佇むひなびた石仏までその形は様々ですが、今も息づく観音信仰に守られて地域のいたるところにその姿をとどめており、これら三十三観音を巡った道を、道中の宿場や門前町で一服しながらめぐることで、往時の会津の人々のおおらかな信仰と娯楽を追体験することができます。
【福島県】サムライゆかりのシルク ―日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へ―
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明治維新の後、旧庄内藩士約3,000人(推定稼働延人員約50万人)が刀を鍬に替え、荒野を開拓し、日本最大の養蚕群を建設した松ヶ岡開墾場。ここは、庄内地域のみならず、日本全体の近代化にも貢献した“ジャパンシルク源流の地”です。松ヶ岡の開墾は、鶴岡市を中心に庄内地域で絹産業隆盛の大きな契機となり、産業面だけでなく、文化面にも大きな影響を与えました。松ヶ岡開墾場綱領にある「徳義を本として産業を興して国家に報じ、以て天下に模範たらんとす」の教えが守り続けられ、養蚕から製糸・製織・精練・捺染(なっせん)までの絹製品生産の一貫した工程を無形の文化遺産、すなわち“生きた業”として現在に継承する、国内で唯一の地域となっています。
【山形県】山寺が支えた紅花文化
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山形県の中央部に位置する村山地域は、江戸時代には日本一の紅花の産地として知られていました。紅花は、山寺(宝珠山立石寺)を建立した慈覚大師や第二世安然大師によってこの地に伝えられたと言われ、江戸時代には日本一の紅花の産地として知られるようになり、上方に運ばれて華麗な西陣織や化粧用の紅に加工されて日本人の暮らしを彩りました。「最上紅花」と呼ばれた当地の紅花は、朱から真紅まで多様な色合いを出す貴重な染料であり、当地に莫大な富をもたらし、豊かな文化を今に伝えます。この地域を訪れる者は、山寺の情景と紅花畑、紅花豪農・豪商の蔵座敷そして雛人形など、様々な上方由来の文物を通して芭蕉もきっと目にしたに違いない、紅花で栄えた当地の隆盛を偲ぶことができるのです。
関東エリア
【群馬県】かかあ天下 ―ぐんまの絹物語―
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蚕は繊細な虫で「お蚕さま」と呼ばれ、子どものように、家の中で大切に育てられました。蚕の世話は、家の中を切り盛りする女たちの重要な仕事で、蚕の世話、他の農作業、食事作りと休む間もなく働き、農家の働き手の中心として活躍しました。そして、絹が主要な輸出品として外貨獲得の切り札となると、県内の養蚕・製糸・織物はますます盛んになり、明治5年には「富岡製糸場」が創業。全国から少女たちが製糸工女として、また大量の繭が原料として、富岡に集めらます。やがて、女たちは繭から糸を繰り出す技術にも磨きを掛けていきました。現代の群馬にも、日本の絹織物の技術や文化が受け継がれ、農家の女性たちが生産に励む傍ら、自分や大切な家族のためつくった着物は、今でも大切に保存されています。
【千葉県】北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み ―佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群―
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江戸に近接する北総地域は、江戸に続く街道と利根川水運を活かし、江戸を様々な形で支えながら発展しました。そして、盛んな人と物の交流は、この地域に豊かさをもたらし、特色ある都市群が形成されました。江戸との密接な繋がりの中でそれぞれ繁栄した佐倉、成田、佐原、銚子の四都市は、今の暮らしの中でも江戸の往時を物語るように町並みが残されています。江戸及びその近郊の都市の多くが、開発により昔ながらの風景・街道が破壊されて行く中で、北総地域に今も良好に残される佐倉の城下町、成田の門前町、佐原の商家の町並み、銚子の港町は、世界から一番近い場所に江戸情緒が残り、しかも同一地域にありながらタイプの違う4種の町並みで、江戸を感じることができる稀有な例となっています。
【神奈川県】江戸庶民の信仰と行楽の地 ~巨大な木太刀を担いで「大山詣り」~
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大山は別名「雨降山」と呼ばれ、雨乞い、五穀豊穣、商売繁盛を願う多くの庶民が「大山詣り」に訪れました。しかし、人々を惹き付けたのは神仏の御利益だけではありません。大山は、関東一円からその神秘的な容姿を望むことができます。当時、富士詣りも人気がありましたが、富士へ行くには少なくとも7日を要し、箱根の関所を通る手形が必要な大旅行。一方、大山詣りは関所も通らず、3日4日程度といった小旅行だったのです。大山詣りは先導師により脈々と引き継がれ、今も白装束に身を包んだ大山講の一行や古くから伝わる様々な祭事を目の当たりにすることができます。首都近郊に残る豊かな自然とふれあいながら歴史を巡り、山頂から眼下に広がる雄大な景色を目にしたとき、先人たちの思いと満足を体感することができます。
【神奈川県】「いざ、鎌倉」~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~
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頼朝が鎌倉幕府を開いてより800有余年。この地に活きた武士たちの歴史と哀愁を感じられる古都鎌倉は、政権所在地となって以降、幕府によって急速に都市整備が進められ、さらに幕府滅亡後も室町幕府の東国支配の拠点として大いに繁栄しました。江戸時代には信仰と遊山の対象として脚光を浴び、明治時代から大正時代には別荘が建てられ、近代都市としてのまちづくりが進められました。そうした中にあっても、歴史的遺産と自然とが調和した町の姿は、多くの人々によって守り伝えられてきました。自然と一体となった中世以来の社寺が醸し出す雰囲気の中に、各時代の建築や土木遺構、鎌倉文士らが残した芸術文化、生業や行事など様々な要素が、まるでモザイク画のように組み合わされた特別な町となったのです。
【埼玉県】和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田
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行田足袋は、「貞享年間亀屋某なる者専門に営業を創めたのに起こり」との伝承があります。最盛期の昭和13~14年には、全国の約8割の足袋を生産する日本一の産地となり、『行田音頭』の歌詞に「足袋の行田を想い出す」とあるように、「足袋の行田か行田の足袋か」と謳われる“日本一の足袋のまち”になりました。靴下が普及した現在も、行田では足袋の生産が続けられており、日本一の産地として新製品を国内外へと発信し続け、「足袋と言えば行田」と多くの方に親しまれています。足袋産業で繁栄していたことを象徴する多種多様な足袋蔵も約80棟が現存し、時折流れるミシンの音と共に、裏通りに趣きのある足袋蔵の町並みを形成しています。そしてその再活用が、町に新たな彩りを加え始めています。
【栃木県】地下迷宮の秘密を探る旅 ~大谷石文化が息づくまち宇都宮~
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宇都宮市の大谷地域で産出される「大谷石(おおやいし)」。軽くてやわらかく加工がしやすいため、古くから蔵や塀の石材として利用されてきました。1923年、アメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトが帝国ホテル旧本館の建築に用いたことでも名声を高めました。江戸時代に本格化した大谷石の採掘は、日本屈指の採石産業として発展。地下へ掘り下げていく坑内掘りによって、巨大な石切り場が次々と生み出されました。そこは石柱が延々と立ち並び、岩肌がむき出しの地下空間――。長い年月をかけて、石工たちのエネルギーと壮大な歴史を物語る場所です。宇都宮市のまちを歩けば、いろいろな姿に形を変えた大谷石に出会えるでしょう。大谷石をほる文化、そして掘り出された石を変幻自在に使いこなす文化は、脈々と受け継がれ、この地を訪れる人びとを魅了しています。
【栃木県】明治貴族が描いた未来 ~那須野が原開拓浪漫譚~
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栃木県北部に位置する日本最大規模の扇状地「那須野が原」には、明治から昭和にかけて大規模農場がひしめき合った時代がありました。これらの「大規模農場と別荘」を作り上げたのは、明治維新を牽引した元勲や明治政府の要職を歴任した貴族たち...いわゆる「華族」でした。そして、これら華族農場の成立の背景には、明治政府が推し進めた政策が大きく関わっていました。東京からわずか150kmに位置するこの地は、明治初年まで人の住めない不毛の原野でした。人の住めない原野に農場を開いた華族たちは、人を呼び込む新しい「まち」も作り上げていきます。彼らの権力は鉄道や国道を開拓地に引き込み、農場内は正確に区画整理されて、開拓に携わる移住者を迎え入れました。
中部エリア
【山梨県】葡萄畑が織りなす風景 ―山梨県峡東地域―
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甲府盆地の東部(山梨市、笛吹市、甲州市の峡東地域)には、平地から急斜面まで見渡す限り美しい葡萄畑が広がっています。中でも甲州市勝沼は、葡萄栽培の始まりが奈良時代と歴史が古く、甲州ワイン(白ワイン)の原料となる日本固有の葡萄品種「甲州」の発祥の地とされています。
明治時代に盛んだった養蚕業は、政府の殖産興業政策により、ワイン産業へと転換。勝沼では全国に先駆けて葡萄酒醸造所が開かれました。水田や桑畑は葡萄畑へと変わり、農家が身近な飲み物として作っていた葡萄酒は、やがて醸造家による本格的なワイン造りに繋がりました。現在、峡東地域は60を超える日本一のワイナリー数を誇ります。長い年月をかけて作り上げられてきた葡萄畑の風景は、積み重ねてきた葡萄栽培の歴史と、ワイン醸造に情熱を注ぐ醸造家たちの思いに支えられながら、未来へ受け継がれています。
【富山県】宮大工の鑿一丁から生まれた木彫刻美術館・井波
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江戸中期の大火で焼失した真宗大谷派の井波別院 瑞泉寺を再建する際、東本願寺の御用彫刻師・前川三四郎に彫刻を依頼したのが物語の始まり。四人の地元大工が三四郎から技法を習い、瑞泉寺の再建などで培った技術と融合させることで、華麗で豪壮な井波彫刻が生まれました。この技術・技法は受け継がれ、やがて井波には彫刻師を目指す者が集まるようになります。
優れた彫刻が残る瑞泉寺、木を削る音が響きクスノキやケヤキなどの香りが漂う門前町、木彫刻でできた表札や看板に街路灯、祭りの曳山や獅子舞の獅子頭など、暮らしの随所に彫刻が息づく町の風景は、日本の木彫刻文化の護り手となった今も変わりません。
【富山県】加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡 ―人、技、心―
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加賀前田家二代当主前田利長は、高岡の地が軍事的な機能だけでなく、水陸交通の要衝として経済的な機能を合わせ持つ理想的な地であると見抜き高岡城を築城しました。しかし利長は在城わずか5年で他界してしまいます。一朝の夢に終わるかと危ぶまれた高岡の繁栄を立て直したのが三代目当主前田利常です。利常は、利長が築き上げた町割りなどを活かし、商業都市への政策転換を進めます。再建された高岡は、商人の町であると同時に職人の町でもあり、町民自身も自ら競い合いながら発展しました。町民自身が担い手となり、地域に富を還元し町の発展に貢献してきたことは、近代以降にあっても継承され、現在でも、町割り、街道筋、町並み、生業や伝統行事などに町民の歩みが独特の気風として色濃く残されています。
【石川県】灯(あか)り舞う半島 能登 ~熱狂のキリコ祭り~
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さまざまな文化を受け入れつつも、半島という地理的閉鎖性によって独自の文化を育んできた能登には、祭礼をはじめとする貴重な民俗行事が受け継がれ、「民俗の宝庫」、「祭りの宝庫」とも呼ばれます。能登の祭礼の中心となるのは「キリコ祭り」と総称される灯籠神事で、能登の人々の生活に溶け込んで、今なお盛んに行われています。キリコとは「切子灯籠(きりことうろう)」を縮めた呼び名で、祭礼に使われる山車の一種です。しかし、キリコ祭りと総称されているものの、それぞれの祭りは多種多様。その数は200近くにのぼるとされ、それぞれの地域・気候風土・気質と深く結び付き、集落ごとに形状や規模が異なります。これほどまでに灯籠神事が集積した地域は全国を見ても唯一無二です。
【福井県】海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~
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日本海にのぞみ、豊かな自然に恵まれた若狭は、古代、海産物や塩など豊富な食材を都に送り、朝廷の食を支えた「御食国」のひとつであり、御食国の時代以降も「若狭の美物」を都に運び、京の食文化を支えてきました。近年「鯖街道」と呼ばれる若狭と都とをつなぐ街道群は、食材だけでなく様々な物資や人、文化を運ぶ交流の道でした。朝廷や貴族との結びつきから始まった都との交流は、「鯖街道」の往来を通じて市民生活と結びつき、街道沿いに社寺・町並み・民俗文化財などによる全国的にも稀有なほど多彩で密度の高い往来文化遺産群を形成してきました。「鯖街道」をたどれば、古代から現在にかけて1500年続く往来の歴史と、伝統を守り伝える人々の営みを肌で感じることができます。
【岐阜県】「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜
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自然景観を背景に行われる饗応は、中世以前から日本各地に存在しますが、その根底には自然に溶け込むことに美意識を見出すという日本人の伝統的な価値観があります。信長は金華山や長良川、城下町の賑わいが一体となった素晴らしい景観や鵜飼文化にその価値を見出した上で、軍事施設である城に「魅せる」という独創性を加え、他に例の無いおもてなし空間としてまとめあげ、饗応を行いました。冷徹非道、戦上手、改革者、破壊者等のイメージで語られることが多い信長ですが、急峻な岐阜城やその城下で行ったのは戦いではなく、意外にも手厚いおもてなしでした。信長が形作った戦国時代の城・町、そして長良川の鵜飼文化は、岐阜城が城としての役割を終えた後も受け継がれ、今も岐阜の町に息づいています。
【三重県】祈る皇女斎王のみやこ 斎宮
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斎王とは、およそ660年という長きに亘り、国の平安と繁栄のため、都を離れ、伊勢神宮の天照大神に仕えた特別な皇族女性のこと。そんな斎王が暮らした地が斎宮です。天皇の代理である斎王が暮らす斎宮は、都から訪れる人も多く、近隣の国からもさまざまな物資が集まるなど、この地方の文化の中心地の一つでした。そんな斎王制度も、南北朝の時代以降、国内の兵乱のために廃絶してしまいます。古の制度は歴史の中に埋もれ、地名として姿を残すも、斎宮は「幻の宮」となりました。そんな幻の宮・斎宮が蘇ったのは昭和に入ってから。発掘調査により、斎宮の存在が確認され、昭和54年に国の史跡「斎宮跡」として指定されました。今も続く、斎宮究明の発掘調査。すべて終えるまであと200年以上かかるとされています。
【新潟県】「なんだ、コレは!」 信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化
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信濃川流域には縄文時代に起源をもつ文化が息づいています。縄文の昔から人々を養ってきた山・川・海の幸、加工や保存の知恵。地方色豊かな郷土料理、酒や味噌・醤油など発酵食品の製造技術や習俗、そして大仰な4つの突起を持つ火焔型土器です。大仰な突起は、煮炊きする具の出し入れには邪魔になります。つまり現実の用途にかなった器ではなく、縄文人の世界観から紡ぎだされた観念を表現した器なのです。古今東西の焼物の中で突起を持つものは、火焔型土器に代表される日本の縄文土器だけであり、世界の中で際立った存在です。縄文文化は、日本文化の源流であり、その意味で火焔型土器は浮世絵や歌舞伎ととともに、日本文化そのものなのです。
【石川県】『珠玉と歩む物語』小松 ~時の流れの中で磨き上げた石の文化~
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小松の弥生人は、那谷・菩提・滝ヶ原で産出される碧玉を原料に「玉つくり」を開始しました。驚異的な加工技術によって作られた管玉は、糸魚川産ヒスイを加工した勾玉と組み合わせた首飾りや頭飾りとして、弥生の王たちを魅了します。古代まで王の墓や国の建築物など、特別な建造物の建築部材利用が主であった切石技術は、中世に入ると鉄製の石工道具の進化と普及により、囲炉裏や火鉢等の生活道具のほか、灯篭や石仏等、細かな細工を施す石造彫刻品の制作も活発となり、生活・信仰・文化に密着した石の利用が浸透していきます。小松の人々は大地の恵みである石の資源を見出し、時代のニーズに応じて進化してきた様々な技術、知識を磨き上げ、人・モノ・技術が交流する豊かな石の文化を築き上げてきているのです。
【長野県】木曽路はすべて山の中 ~山を守り 山に生きる~
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戦国時代が終わり、新たな町づくりが進められると、城郭・社寺建築の木材需要が急増し、全国的な森林乱伐をもたらしました。江戸幕府から良材の無尽蔵の宝庫と目された木曽谷は、江戸・駿府・名古屋の城と城下町などの建設のために膨大な用材が伐り出され、深刻な森林資源の枯渇に陥ります。木曽谷を所管する尾張藩は、江戸時代初期から木曽檜などの伐木への制限に乗り出しました。森林保護政策により山での採集を制限された木曽領民には、木曽の風土に根ざした地場産品の生産が奨励されました。木曽谷の山と木曽路は、木曽谷の人々の「山を守り、山に生きる」くらしを育みました。そのくらしは、森林の保護、木曽路や宿場の保存、伝統工芸品の伝承を大切に思う心を培い、今も木曽谷に息づいています。
【岐阜県】高山市 飛騨匠の技・こころ ―木とともに、今に引き継ぐ1300年―
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豊かな森林に恵まれた飛騨地方では、古くからこれを利用する木工技術が発達し、「飛騨匠(ひだのたくみ)」と呼ばれるすぐれた技術を持つ職人を多く輩出してきました。約1300年前の奈良時代には、税(庸・調)を免除する代わりに、木工技術者を都へ派遣させる仕組みが確立されます。これは全国でも飛騨国だけに定められた特別な制度でした。
鎌倉時代にこの制度が消滅した後も、彼らの伝統と技術は脈々と受け継がれていきます。今も各地に残る寺社建築をはじめ、優れた匠の民家建築や伝統工芸、絢爛豪華な高山祭の屋台に、縄文の昔から続く飛騨匠の技・こころを見ることができるでしょう。
近畿エリア
【滋賀県】琵琶湖とその水辺景観 ―祈りと暮らしの水遺産―
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近江盆地の中央に琵琶湖を有する滋賀県。琵琶湖の豊富な水は人々にとってただの資源ではなく、生活や精神に深く関わる大切な存在です。清らかな水には精気が宿ると信じられ、古くから薬師如来が広く信仰されてきました。そうした生活の中で人々は、水を敬うからこそ、巧みに生活に取り入れてきました。周辺の山々からもたらされる伏流水を、サイフォンの原理を用いて各家庭に引く水利システム。琵琶湖の固有種を使った「鮒ずし」をはじめとする伝統的な食文化。こうした地域ならではの「水の文化」が育まれ、滋賀県の「水遺産」として今に伝わりました。自然と生き物の恵みにあふれた水辺の景観は、水と人の営みが調和した文化的景観として、多くの人を引きつけています。
【京都府】日本茶800年の歴史散歩
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お茶が中国から日本に伝えられて以降、京都・南山城は、お茶の生産技術を向上させ、茶の湯に使用される「抹茶」、今日広く飲まれている「煎茶」、高級茶として世界的に広く知られる「玉露」を生み出しました。この地域は、約800年間にわたり最高級の多種多様なお茶を作り続け、我が国の喫茶文化の展開を生産、製茶面からリードし、発展をとげてきた歴史と、その発展段階毎の景観を残しつつ今に伝える美しい茶畑、茶問屋などが優良な状態で揃って残っている唯一の場所です。京都府では1901年以来、茶業を専らとする高等学校を設立し、人材育成に努めるとともに、1914年には、茶業の研究機関を設け、製茶機械や覆下栽培、品種改良、茶の旨み成分の発見など茶業の新しい技術・文化の創造に取り組んでいます。
【兵庫県】デカンショ節 ―民謡に乗せて歌い継ぐふるさとの記憶―
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かつて城下町として栄えた丹波篠山の地は、江戸時代の民謡を起源とするデカンショ節によって、地域のその時代ごとの風土や人情、名所、名産品が歌い継がれています。地元の人々はこぞってこれを愛唱し、民謡の世界そのままにふるさとの景色を守り伝え、地域への愛着を育んできました。その流れは、今日においても、新たな歌詞を生み出し、新たな丹波篠山を更に後世に歌い継ぐ取組として脈々と生き続けています。地元の高校やデカンショ節保存会では、デカンショバンドやジュニア競演会などに力を入れており、祭りは日頃の成果を発表する場であると共に、あらゆる世代が楽しみにして参加する「ハレ」の場となっています。
【奈良県】日本国創成のとき ~飛鳥を翔(かけ)た女性たち~
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日本が「国家」として歩み始めた飛鳥時代、この日本の黎明期を牽引したのは女性でした。この時代の天皇の半数は女帝であり、彼女たちの手によって新たな都の造営、外交、大宝律令を始めとする法制度の整備が実現されました。また、文化面では、女流歌人が感性豊かな和歌を高らかに詠い上げ、宗教面では、尼僧が仏教の教えを広め、発展させるなど、政治・文化・宗教の各方面で女性が我が国の新しい"かたち"を産み出し、成熟させていきました。日本国創成の地である飛鳥は、日本史上、女性が最も力強く活躍した場所であり、その痕跡が色濃く残る地でもあります。飛鳥の女性を語ることから、日本が「国家」として歩み始め、東アジアを通した世界観が見えてきます。
【兵庫県】『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」~古代国家を支えた海人の営み~
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わが国最古の歴史書『古事記』の冒頭を飾る「国生み神話」。この壮大な天地創造の神話の中で最初に誕生する“特別な島”が淡路島です。その背景には、新たな時代の幕開けを告げる金属器文化をもたらし、後に塩づくりや巧みな航海術で畿内の王権や都の暮らしを支えた"海人(あま)"と呼ばれる海の民の存在がありました。彼らの足跡は、貴重な遺跡や多様な文化遺産として良好な姿で今も島に残り、多くの万葉歌人に詠まれた美しい風景は景勝地としての今の島に受け継がれ、「御食国」としての歴史を刻んだ島は今も豊かな食材に恵まれた島でありつづけています。畿内の前面に浮かぶ瀬戸内最大の島は、古代国家形成期の中枢を支えた“海人”の歴史を今に伝える島なのです。
【奈良県】森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~
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我が国の造林発祥の地である奈良県吉野地域には、約500年にわたり培われた造林技術により育まれた重厚な深緑の絨毯の如き日本一の人工の森と、森に暮らす人々が神仏坐す地として守り続ける野趣溢れる天然の森が、訪れる人々を圧倒する景観で迎えてくれます。吉野町や下市町を除く村部には大規模な集落は少なく、緩斜面を削平した宅地に建つ民家や吉野建の民家が集まる小集落が谷間や山の中腹に点在しています。傾斜地や谷間に暮らすこの地域の人々は、森の恵みに食材を求め、あるいは環境に合う作物や加工食品をつくり、食生活を充たしてきました。ここに暮らす人々が、長きに亘って森を育み、育まれる中で作り上げた食や暮らしの文化が今に伝わり、訪れる者はそれを体感して楽しむことができるのです。
【和歌山県】鯨とともに生きる
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鯨は、日本人にとって信仰の対象となる特別な存在でした。人々は、大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏れたものの、浜辺に打ち寄せられた鯨の肉を食し、皮や骨、ひげで生活用品を作るなど、全てを余すことなく利用してきた人々は、この“海からの贈り物”に感謝し崇めながらも、やがて自ら捕獲する道を歩み始めます。熊野灘沿岸地域では、江戸時代に入り、熊野水軍の流れを汲む人々が捕鯨の技術や流通方法を確立し、これ以降、この地域は鯨に感謝しつつ捕鯨とともに生きてきました。現在も捕鯨は続けられ、当時の捕鯨の面影を残す旧跡が町中や周辺に点在し、食・祭り・伝統芸能などが伝承され「鯨とともに生きる」捕鯨文化が息づいています。
【京都府】300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊
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京都府北部の丹後地方を訪ねると、どこからか聞こえてくるガチャガチャという機織りの音。「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほど、秋から冬にかけての丹後は雨や雪の日が多い土地です。その湿潤な気候が、乾燥を嫌う絹織物の生産に適していました。
江戸時代、京都西陣で絹織物「お召ちりめん」が開発されると、丹後産の絹織物は売れ行きが減少。凶作も重なり、人々は危機に直面しました。そうした中、峰山(京丹後市)の絹屋佐平治(さへいじ)や加悦(かや/与謝野町)の木綿屋六右衛門(ろくえもん)らが、京都西陣のちりめん織りの技術を習得。友禅染の素材に適した白生地のちりめんが、瞬く間に丹後地域全体で織られるようになりました。しなやかな風合いを持ち、染色性に優れたちりめんの需要は、友禅染の大流行とともに拡大。丹後はちりめんの一大産地として急速に発展しました。
【兵庫県】播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道 ~資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍~
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兵庫県中央部の播但地域。そこに姫路・飾磨港から生野鉱山へと南北一直線に貫く道があります。“銀の馬車道”です。
さらに明延鉱山、中瀬鉱山へと“鉱石の道”が続きます。わが国屈指の鉱山群をめざす全長73kmのこの道は、明治の面影を残す宿場町を経て鉱山まちへ、さらに歩を進めると各鉱山の静謐とした坑道にたどり着きます。近代化の始発点にして、この道の終着点となる鉱山群へと向かう旅は、播但貫く73kmの轍をたどることは、鉱物資源大国たらしめ近代化を推し進めた先人の国際性と革新の気質に触れることであり、金・銀・銅を求め行き交った多様な人の交流から生まれた多彩な生活に出会うこと。そしてこれらが、脈々と現代に連なり強く息づいていることを体感する旅と言えます。
【和歌山県】絶景の宝庫 和歌の浦
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和歌の浦は、和歌川の河口に広がる干潟を中心に、南は熊野古道の藤白坂から、西は紀伊水道に面する雑賀崎までの、和歌浦湾を取り巻く景勝の地。万葉の時代にこの思わず持ち帰りたいほどの情景が和歌にうたわれ、和歌の神がまつられ、唯一無二の和歌の聖地となりました。その情景が和歌と絵画に融合した和歌浦十景は、潮が満ち干潟から鳥が飛び立つ様、春霞の干潟越しにみる寺社を抱く山並み、紅葉の峠越しに見下ろす波穏やかな入り江など、うたわれ絵になってきた絶景を、今も訪れる人々に教えてくれます。自然と文化が調和した和歌の浦の絶景は、日本人の精神文化の源ともいえる和歌に始まり、いつの時代も人々を魅了し、様々な芸術を育んできたのです。
【和歌山県】「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅
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醤油の起源は、遥か中世の時代、中国に渡り修行を積んだ禅僧が伝えた特別な味噌に始まります。この味噌の桶に溜まった汁に紀州湯浅の人々が工夫を重ね、生まれたのが現在の醤油であるといわれています。古くから港町として栄え、陸路でも熊野参詣や西国巡礼の旅人や、大勢の商人たちの往来で賑わった湯浅には多くの物資と人々が集まり、町場が形成されていきました。醤油の醸造業で栄えた町並みには、重厚な瓦葺の屋根と繊細な格子が印象的な町家や、白壁の土蔵が建ち並びます。通りや小路を歩けば、老舗醸造家から漂ってくる醤油の芳香が鼻をくすぐり、醤油造りの歴史と伝統が、形、香り、味わいとなって人々の暮らしの中に生き続けています。
【和歌山県】「百世の安堵」~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~
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広川町は、起伏なす紀伊山脈が海に迫り、複雑な海岸線には岩礁と円弧を描く砂浜が点在し、沖には小島が連なる変化に富んだ風景があり、豊かな自然に育まれてきました。この町は、江戸と大坂を結ぶ廻船や熊野参詣道の要所として隆盛の一途をたどりましたが、深く切れ込んだ湾の最深部に位置し、さらに低地であるため、その繁栄は津波の危機と背中合わせでした。江戸時代末期、津波に襲われた人々は、復興を果たし、この町に日本の防災文化の縮図を浮び上らせました。町の人々は、災害の記憶を繋いでいくため、津波防災の心得や先人の警鐘を刻んだ石碑を建てています。神社と堤防に設けられた碑は、「津浪祭」や神社の秋祭りで人々に意識され、世代を越えて連綿と受け継がれています。
【大阪府・奈良県】1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」~竹内街道・横大路(大道)~
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春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈みます。このことから、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹内街道・横大路)は、太陽の道と呼ばれています。そして、その道はいつの日か三輪山の大神神社を頭、二上山の長尾神社を尾とする「龍の道」になぞらえられるようになりました。古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝えました。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参の宿場町としての賑わいを見せ、場所ごとに様々な表情を浮かべています。1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道、それが竹内街道・横大路(大道)なのです。
四国エリア
【高知県】森林鉄道から日本一のゆずロードへ ─ゆずが香り彩る南国土佐・中芸地域の景観と食文化─
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中芸はかつては林業で栄え、大木を伐る掛声が響く地でした。しかし、1960年代になり天然林が枯渇する中で、人びとは林業に代わる新たな産業を探さなければなりませんでした。そこで力を注いだのが、ゆず栽培です。身近にあったゆずの魅力と価値に改めて注目し、りんてつの軌道が敷かれた川沿いにある田畑を畑に変え、木材を運び出していた山間では山面の限られた土地に石垣を築き段々畑を開きました。時代の変化をたくましく生きる人びとの手によって、中芸の風景は「林業」から「ゆず」へと変わり、木材を運んだ「りんてつ」の軌道は、ゆずを運ぶ「ゆずロード」に生まれ変わりました。中芸一帯を走るゆずロードをぐるりとめぐれば、ゆずの香りと彩りに満ちた景観と、ゆずの風味豊かな食文化を満喫することができます。
中国エリア
【鳥取県】六根清浄と六感治癒の地 ~日本一危ない国宝鑑賞と世界屈指のラドン泉~
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神話のふるさと因幡国、出雲国と隣り合う伯耆国に修験道の聖地三徳山が誕生します。三徳山は、山岳修験の場としての急峻な地形と神仏習合の特異の意匠・構造を持つ建築とが織りなす独特の景観を有しており、その人を寄せ付けない厳かさは1000年にわたって畏怖の念を持って守られ続けています。参拝の前に心身を清める場所として三徳山参詣の拠点を担った三朝温泉は、三徳山参詣の折に白狼により示されたとの伝説が残り、温泉発見から900年を経て、なお、三徳山信仰と深くつながっています。今日、三徳山参詣は、断崖絶壁での参拝により「六根(目、耳、鼻、舌、身、意)」を清め、湯治により「六感(観、聴、香、味、触、心)」を癒すという、ユニークな世界を具現化しています。
【島根県】津和野今昔 ~百景図を歩く~
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津和野は、自然の美しい高津川水系に沿って町が形成され、青野山や城山など周囲を山々に囲まれた盆地に城下が発展しました。江戸時代、津和野藩は代々絵師を抱えて四季折々の津和野の名所や風習・風俗を襖絵や額などに描かせ、津和野の伝統文化である煎茶とともに藩士や津和野を訪れた人々をもてなしたといいます。幕末の津和野藩の風景等を記録した「津和野百景図」には、藩内の名所、自然、伝統芸能、風俗、人情などの絵画と解説が100枚描かれています。明治以降、不断の努力によって町民は多くの開発から街を守るとともに、新しい時代の風潮に流されることなく古き良き伝統を継承してきました。百景図に描かれた当時の様子と現在の様子を対比させつつ往時の息吹が体験できる稀有な城下町です。
【広島県】尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市
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尾道三山と対岸の島に囲まれた尾道は、町の中心を通る「海の川」とも言うべき尾道水道の恵みによって、中世の開港以来、瀬戸内随一の良港として繁栄し、人・もの・財が集積しました。その結果、尾道三山と尾道水道の間の限られた生活空間に多くの寺社や庭園、住宅が造られ、それらを結ぶ入り組んだ路地・坂道とともに中世から近代の趣を今に残す箱庭的都市が生み出されました。船上から尾道を眺めれば、尾道三山と街の景色を一望することができます。迷路に迷い込んだかのような路地や、坂道を抜けた先に突如として広がる風景は、限られた空間ながら実に様々な顔を見せ、今も昔も多くの人を惹きつけてやみません。
【鳥取県】地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市
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大山は、『出雲国風土記』の国引き神話に「伯耆国なる火神岳」として登場する、文献にみえる日本最古の神山です。大山の山頂に現れた万物を救う地蔵菩薩への信仰は、平安時代末以降、牛馬のご加護を願う人々を大山寺に集めました。
江戸時代には、大山寺に庇護され信仰に裏打ちされた全国唯一の「大山牛馬市」が隆盛を極め、明治時代には日本最大の牛馬市へと発展します。西国諸国からの参詣者や牛馬の往来で賑わった大山道沿いには、今も往時を偲ぶ石畳道や宿場の町並み、所子に代表される農村景観、「大山おこわ」など独特の食文化、大山の水にまつわる「もひとり神事」などの行事、風習が残されています。ここには、人々が日々「大山さんのおかげ」と感謝の念を捧げながら大山を仰ぎ見る暮らしが息づいています。
【島根県】出雲國たたら風土記 ~鉄づくり千年が生んだ物語~
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島根県東部の出雲地方では、約1400年前から「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を用いる鉄づくりが盛んに行われていました。「たたら製鉄」で繁栄した出雲の地では、今日もなお世界で唯一たたら製鉄の炎が燃え続けています。たたら製鉄は、優れた鉄の生産だけでなく、原料砂鉄の採取跡地を広大な稲田に再生し、燃料の木炭山林を永続的に循環利用するという、人と自然とが共生する持続可能な産業として日本社会を支えてきました。また、鉄の流通は全国各地の文物をもたらし、都のような華やかな地域文化をも育みました。今もこの地は、神代の時代から先人たちが刻んできた鉄づくり千年の物語が終わることなく紡がれています。
【島根県】日が沈む聖地出雲 ~神が創り出した地の夕日を巡る~
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奈良時代に「伊那佐之小浜」や「出雲御埼山」と記された海岸線は、今ではそれぞれ「稲佐の浜」や「日御碕」の名で親しまれており、いずれも日本海に沈む夕日の絶景エリアとして人々に愛されています。しかしこの海岸線に、夕日にちなんだお社である「天日隅宮(あめのひすみのみや)」(出雲大社)と「日沉宮(ひしずみのみや)」(日御碕神社)が祀られていることはあまり知られていません。古来、大和の北西にある出雲は、日が沈む聖地として認識されていました。とりわけ、出雲の人々は夕日を神聖視して、畏敬の念を抱いていたと考えられます。 海に沈むこの地の美しい夕日は、日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を語り継いでいます。
【岡山県】一輪の綿花から始まる倉敷物語 ~和と洋が織りなす繊維のまち~
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倉敷市が位置する岡山県の南部一帯は、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、大小の島々が点在する一面の海でした。近世からの干拓は人々の暮らしの場を広げ、そこで栽培された綿やイ草は足袋や花莚などの織物生産を支えました。明治以降、西欧の技術を取り入れて開花した繊維産業は「和」の伝統と「洋」の技術を融合させながら発展を続け、現在、倉敷は年間出荷額日本一の「繊維のまち」となっています。広大な干拓地の富を背景に生まれた江戸期の白壁商家群の中に、近代以降、紡績により町を牽引した人々が建てた洋風建築が発展のシンボルとして風景にアクセントを加えています。美しい町並みを散策し繊維製品に触れると、和と洋が織りなしながら重ねられてきた倉敷の歴史文化とその魅力を体感することができます。
【岡山県】「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま ~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~
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いにしえに吉備と呼ばれた岡山。この地には鬼ノ城と呼ばれる古代山城や巨大墓に立ち並ぶ巨石などの遺跡が現存します。これら遺跡の特徴から吉備津彦命が温羅と呼ばれた鬼を退治する伝説の舞台となりました。絶壁にそびえる古代山城は、その名の通り温羅の居城とされ、巨石は命の楯となります。勝利した命は巨大神殿に祀られ、敗れた温羅の首はその側に埋められました。鬼退治伝説は、古代吉備の繁栄と屈服の歴史を背景とし、桃太郎伝説の原型になったとされています。遠く瀬戸内海まで見渡せる鬼城山の絶壁から眼下を望めば、古くから護り伝えられた巨大古墳などの多様な遺産と、ほかでは見ることのできない吉備津彦命と温羅の戦いの世界が広がり、吉備の地を訪れる人々を神秘的な物語へと誘ってくれます。
【広島県】瀬戸の夕凪が包む国内随一の近世港町 ~セピア色の港町に日常が溶け込む鞆の浦~
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鞆の浦の常夜燈は港に現存する江戸時代のものとして日本最大級の大きさを誇ります。夕暮れ時になると灯りのともる石造りの「常夜燈」は、港をめざす船と港の人々を160年間見守ってきた鞆の浦のシンボルです。「雁木」と呼ばれる瀬戸内海の干満に合わせて見え隠れする石段が、常夜燈の袂から円形劇場のように港を包み、その先端には大波を阻む石積みの防波堤「波止」が横たわります。瀬戸内の多島美に囲まれた鞆の浦は、これら江戸期の港湾施設がまとまって現存する国内唯一の港町です。潮待ちの港として繁栄を極めた頃の豪商の屋敷や小さな町家がひしめく町並みと人々の暮らしの中に、近世港町の伝統文化が息づいています。
九州エリア
【長崎県】国境の島 壱岐・対馬・五島 ~古代からの架け橋~
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日本は大小6,852の島から成り、長崎県には日本最多の971の島があります。日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代よりこれらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点でした。特に朝鮮との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で王都を築き、対馬は中世以降、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄えました。その後、中継地の役割は希薄になりましたが、古代住居跡や城跡、庭園等は当時の興隆を物語り、焼酎や麺類等の特産品、民俗行事等にも交流の痕跡が窺えます。国境の島ならではの融和と衝突を繰り返しながらも、連綿と交流が続くこれらの島は、国と国、民と民の深い絆が感じられる稀有な地域なのです。
【熊本県】相良700年が生んだ保守と進取の文化 ~日本でもっとも豊かな隠れ里 人吉球磨~
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人吉球磨の領主相良氏は、急峻な九州山地に囲まれた地の利を生かして外敵の侵入を拒み、日本史上稀な「相良700年」と称される長きにわたる統治を行いました。その中で領主から民衆までが一体となったまちづくりの精神が形成され、社寺や仏像群、神楽等をともに信仰し、楽しみ、守る文化が育まれました。同時に進取の精神をもってしたたかに外来の文化を吸収し、独自の食文化や遊戯、交通網が整えられます。保守と進取、双方の精神から昇華された文化の証が集中して現存している地域は他になく、日本文化の縮図を今に見ることができる地域であり、司馬遼太郎はこの地を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記しています。
【熊本県】米作り、二千年にわたる大地の記憶 ~菊池川流域「今昔『水稲』物語」~
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菊池川流域は、阿蘇外輪山の菊池渓谷を源とする清らかでミネラル豊富な水に恵まれた地域です。そして、ここには、二千年にわたる米作りによる大地の記憶が残っています。平地には古代から受け継がれた条里、山間には高地での米作りを可能にした井手(用水路)と棚田、そして海辺には広大な耕作地を生み出した干拓。米作りを支えた先人たちによる土地利用の広がりが、今も姿を留め、その全てをコンパクトに見ることができます。更に賑やかな祭りや豊かな食という無形の文化も息づくなど、菊池川流域は古代から現代までの日本の米作り文化の縮図であり、その文化的景観や米作りがもたらした芸能・食文化に出会える稀有な場所なのです。
【大分県】やばけい遊覧 ~大地に描いた山水絵巻の道をゆく~
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耶馬渓とは、山国川が溶岩台地を深く浸食してつくりだした奇岩の渓谷で、中津・玖珠の二つの城下町に挟まれています。南北32km東西36kmの敷地に、断崖、岩窟、渓流が大パノラマをつくり、その深く神秘な地形は伝説と祈りの場所となりました。古来より文人画人を惹きつけ、あまたの絵が、詩が、文学が生まれた場所であり、奇岩奇峰に包まれ暮らす人々は、岩から仏、寺院、石橋、庭園・・と優れた作品を生み出し、大地に配していきました。トンネルを掘り、道を開き、観光列車「耶馬渓鉄道」をひき、探勝道を巡らせ、日本一の長さを競う石のアーチ橋を次々と架けることでそれぞれの作品を回遊路で一つにつなぎ、自由に廻れるようにした大正時代の終わり、ついに天下無二の芸術作品「耶馬渓」が完成したのです。
【大分県】鬼が仏になった里『くにさき』
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ヤマトタケルの父・景行天皇は、熊襲征伐のために、周防灘を渡る時、九州の東に張り出す「くにさき」を発見しました。瀬戸内海を渡るヤマトの人々にとって、「くにさき」は異界との境界であり、“最果ての地”の象徴でした。「くにさき」の寺には鬼がいる。一般に恐ろしいものの象徴である鬼ですが、「くにさき」の鬼は人々に幸せを届けてくれます。おどろおどろしい岩峰の洞穴に棲む「鬼」は不思議な法力を持つとされ、鬼に憧れる僧侶達によって「仏(不動明王)」と重ねられました。「くにさき」の岩峰につくられた寺院や岩屋を巡れば、様々な表情の鬼面や優しい不動明王と出会え、「くにさき」の鬼に祈る文化を体感することができます。「くにさき」では、人と鬼とが長年の友のように繋がっています。
【宮崎県】古代人のモニュメント ─台地に絵を描く 南国宮崎の古墳景観─
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紀元3世紀から7世紀にかけての日本列島では、土を盛り上げたお墓“古墳”を造る文化が各地で栄えました。宮崎平野でも西都原古墳群を始め多くの古墳が造られます。列島各地であまた造られた古墳のある景観(風景)は、時の移ろいの中で様変わりしますが、宮崎平野には繁栄した当時に近い景観が今も保たれています。台地に広がる古墳の姿形が損なわれることなく、古墳の周りには建築物がほとんどない景観は全国で唯一です。当時の人々にとっての古墳とは、人物の地位や実力を大きさや形で表現した、いわば記念碑でもありました。年代順に巡れば、南九州の豪族達の栄枯盛衰を感じることができ、副葬品や埴輪といった古墳からの出土品を鑑賞することで、古墳時代の生活を実感できます。
複数地域
【長野県・山梨県】星降る中部高地の縄文世界 ―数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅―
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火山が生み出した天然ガラスの黒耀石。今日のような運送手段がなかったはるか昔、矢じりやナイフの原料として東北から関東一円、関西地方へと広域に流通していたのが、長野県の霧ヶ峰~八ヶ岳を中心とした中部高地産の黒耀石でした。星糞(ほしくそ)峠、星ヶ塔といった標高1500mを超える地で、キラキラ光る良質の黒耀石が大量に産出されていたのです。原産地の麓には、大量の黒耀石が集められた縄文時代の大きなムラの跡が点々と存在します。そうした遺跡から、当時の文化を示す芸術的な縄文土器が発見されています。森の草木や動物を生き生きと描いた土器に、精巧な黒耀石のナイフや矢じり。そして大地を踏みしめるように立つ女神のような土偶。そこには「ものづくり」を得意とする日本列島の文化のルーツがありました。
【栃木県・茨城県・岡山県・大分県】近世日本の教育遺産群 ─学ぶ心・礼節の本源─
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近世の日本人が高い教養を身につける上で大きく貢献したのが、全国各地に建てられた学校です。藩校や郷学、私塾など、様々な階層を対象とした学校の普及が、明治維新以降のいち早い近代化の原動力となり、現代においても、学問・教育に力を入れ、礼節を重んじる日本人の国民性として受け継がれています。現在、日本人のマナーの良さは世界中で高く評価されています。まさに近世日本の教育は、現代にも継承されている「世界に誇る日本の教育」だったと言えるでしょう。近世日本を代表する教育遺産群では、現在でも論語の素読やいろはかるたなど、当時の教育内容を同じように体験することができます。これら学校は、過去の遺産ではなく、現在でも生きた学びの場なのです。
【愛媛県・広島県】“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 ―よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶―
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戦国時代、宣教師ルイス・フロイスをして"日本最大の海賊"と言わしめた「村上海賊」。理不尽に船を襲い、金品を略奪する「海賊」とは対照的に、村上海賊は掟に従って航海の安全を保障し、瀬戸内海の交易・流通の秩序を支える海上活動を生業としました。とかく猛々しいイメージで語られる海賊ですが、大名と同じように、優雅に茶や香をたしなむ「文化人」でもあり、また高い文学の教養を持っていました。その本拠地「芸予諸島」には、活動拠点として築いた「海城」群など、海賊たちの記憶が色濃く残っています。尾道・今治をつなぐ芸予諸島をゆけば、急流が渦巻くこの地の利を活かし、中世の瀬戸内海航路を支配した村上海賊の生きた姿を現代において体感することができます。
荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~
【北海道・青森県・秋田県・山形県・新潟県・富山県・石川県・福井県・京都府・大阪府・兵庫県・鳥取県・島根県・岡山県・広島県】
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江戸時代、北海道・東北・北陸と西日本を結んだ西廻り航路は経済の大動脈であり、この航路を利用した商船は北前船と呼ばれました。日本海や瀬戸内海沿岸には、山を風景の一部に取り込む港町が点々とみられます。そこには、港に通じる小路が随所に走り、通りには広大な商家や豪壮な船主屋敷が建っています。また、社寺には奉納された船の絵馬や模型が残り、京など遠方に起源がある祭礼が行われ、節回しの似た民謡が唄われています。これらの港町は、荒波を越え、動く総合商社として巨万の富を生み、各地に繁栄をもたらした北前船の寄港地・船主集落で、時を重ねて彩られた異空間として今も人々を惹きつけてやみません。
【滋賀県・三重県】忍びの里 伊賀・甲賀 ─リアル忍者を求めて─
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今や世界中の多くの人々を魅了する「忍者」。アニメーションや漫画によってその名を広く知られながらも、その実態は謎に包まれています。
そんな忍者の真の姿を垣間見られるのが、忍者発祥の地とされる伊賀(三重県伊賀市)と甲賀(滋賀県甲賀市)。政治の要であった京都・奈良にほど近く、東西交通の要衝でした。山々に囲まれた複雑な地形の只中にあることから、時の有力者が身を隠し、軍事的にも重要だったとされる地です。戦国時代を思わせる中世城館(跡)や忍者たちが修練を行ったであろう山々など、「忍びの里」の面影を色濃く残す景色が私たちを迎えてくれます。
なぜこの地で忍術が発達したのか。忍術とは具体的に何なのか。忍者はどんな場所で修練を積んだのか。そんな疑問に答えをくれるのが、伊賀・甲賀の地。忍びの里には、歴史の影で確かに生きていた、「リアル忍者」たちの足跡がありました。
【岡山県・福井県・愛知県・滋賀県・兵庫県】きっと恋する六古窯 ─日本生まれ日本育ちのやきもの産地─
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瀬戸、越前、常滑、信楽、丹波、備前のやきものは「日本六古窯」と呼ばれ、縄文から続いた世界に誇る日本古来の技術を継承している、日本生まれ日本育ちの、生粋のやきもの産地です。 六古窯は、各々で育まれた伝統や製作技術とともに、さりげなくそしてほのぼのと来訪者を出迎える街並みとやきものが日本人のおもてなしの心を表しています。中世から今も連綿とやきものづくりが続くまちは、丘陵地に残る大小様々の窯跡や工房へ続く細い坂道が迷路のように入り組んでいます。恋しい人を探すように煙突の煙を目印に陶片や窯道具を利用した塀沿いに進めば、「わび・さび」の世界へと自然と誘い込まれ、時空を超えてセピア調の日本の原風景に出合うことができます。
【福岡県・山口県】関門“ノスタルジック”海峡 ~時の停車場、近代化の記憶~
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古来より陸上・海上交通の要衝であった関門地域は、幕末の下関戦争を契機とした下関・門司両港の開港以降、海峡の出入口には双子の洋式灯台が設置され、沿岸部には重厚な近代建築が続々と建設されました。昭和に入り、関門鉄道トンネルの開通、関門橋の架橋により「海峡七路」と呼ばれる交通網が完成すると、関門地域は本州と九州の通過点となります。関門海峡には、外国船がもたらした舶来文化が根付き、狭い海峡を外国船が行き交う景観の中に、日本が近代国家建設へ向け躍動した時代のレトロな建造物群が現在も大切に残されています。渡船や海底トンネルを使って両岸を巡れば、まるで映画のワンシーンに紛れ込んだような、ノスタルジックな街並みに出会うことができます。
【静岡県・神奈川県】旅人たちの足跡残る悠久の石畳道 ─箱根八里で辿る遥かな江戸の旅路─
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『天下の険』と歌に唄われた箱根山を東西に越える一筋の道、東海道箱根八里。江戸時代の大幹線であった箱根八里には、繁華な往来を支えるために当時の日本で随一の壮大な石畳が敷かれました。「箱根八里」の魅力は、はるか江戸の昔の街道の有り様が残っていることと、同じ道中にありながらも深山幽谷の東坂と富士を望む眺望が広がる西坂とで大きく風景が変わるところにあります。西国大名やオランダ商館長、朝鮮通信使や長崎奉行など、歴史に名を残す旅人たちの足跡残る街道をひととき辿れば、宿場町や茶屋、関所や並木、一里塚と、道沿いに次々と往時のままの情景が立ち現われてきて、遥か時代を超え、訪れる者を江戸の旅へと誘います。
【佐賀県・長崎県】日本磁器のふるさと肥前 ~百花繚乱のやきもの散歩~
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透き通るような白さ、硬さ、そして精緻な絵付けが特徴の日本磁器。そのふるさとが、九州北西部の肥前地域(肥前やきもの圏)です。約400年前に佐賀県有田町で初めて日本磁器が焼かれてから現在まで、窯業文化が築かれてきました。肥前やきもの圏では、青空に向かってそびえる窯元の煙突や赤土色のトンバイ塀など、窯業の町ならではの景観が見られます。
同じ肥前やきもの圏でも町が変わればやきものの特色は千差万別です。庶民の生活に寄り添う器、国を越えて愛された器、そして将軍に献上された器――。個性豊かな肥前の磁器は、まさに百花繚乱。各産地ではそれぞれの伝統を重んじながら、新しいことにも挑み続けています。









